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芸術とは何か ⎯ ダダ以後の問い直し

 

視覚メディアが暴力的に横溢し、人間の知覚と言語、さらには価値判断すらもメディアにより規定される現代社会において、ボクはしばしば「芸術とは何か」と自問せずにいられない。美術史において、ダダ以後の美術、殊にデュシャンのレディーメイドは、美術という制度の根幹を揺るがし、「芸術の死」をさえ宣言した。もはや何でも芸術たり得るという前提の下に、「描くという行為」がどれほどの意味を保ちうるのだろう。

 

だが同時に、デュシャン的転回が表現しえたのは、時代精神そのものであった。虚無、破壊、アイロニー。世界大戦を経験した世代にのみ許された感受性であったとも言える。そうした批評的精神の意義は否定されるべきではない。とはいえ、美術とはそれのみで尽くされるものだろうか。ボクは、もっと根源的なところに、芸術の、そして人間の本質的営為としての創造の源泉があると考えている。

 

人間とは「描くヒト」である ⎯ 芸術の起源から考える

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ボクの関心は、人間とは何か、という問いに帰着する。チンパンジーと99%のDNAを共有しながら、人類のみが文化を創り、文明を築いた。そして同時に、無思慮な開発によって地球環境を破壊し、今まさに文明の持続性が問い直されている。

 

そんな中で、ボクが着目するのは、「創造性」としての芸術行為である。ボクは思う、美術は人間の本質の根幹にあって、その創造性は人間の精神性に深く根ざすものだ、と。そして、ドローイング（絵を描くこと）は、人間の創造性の根幹をなすものだ。と。ここで興味深いのは、太古の洞窟画の存在だ。20世紀後半に南フランスで最初期の洞窟画が発見され、30,000〜35,000年前のものと推定された。しかし、近年インドネシアで最古の洞窟画が発見され、少なくとも45,500年前のものと発表された。それは現生人類でなく、ネアンデルタール人の手になるものであるかもしれないというので、学界に波紋を投げかけており、研究者は、デニソワ人などの旧人でなく、現生人類、すなわちホモ・サピエンスによる創作であるとして議論を呼んでいる。

 

ところがこの後、スペインのラ・パシエガ洞窟でさらに年代を遡る洞窟画が発見され、推定65,000年前のもので、ネアンデルタール人の手になるものと反響を呼んでいる。しかも、バイソンやウマやシカなどが極めて明確な線で描かれ、世界最古の写実描写による洞窟画であることは間違いない。南アフリアのブロンボス洞窟での考古学調査では、ホモ・サピエンスによる石に刻まれた斜交並行模様が発見され、73,000年を遡るという。そして、その洞窟で生活を営んでいたコミュニティーでは、赤鉄鉱（ocher）を使った赤色の顔料で化粧をしていた痕跡が見つかり、100,000年前のものであると考えられている。人間の定義も含め、今後の考古学的調査にさらなる期待が寄せられている。

 

いずれにせよ、その起源はボクの想像に余ることとはいえ、文字が生み出される遥か以前に人間は絵という手段を持っていたのは確かだ。最古の文字は古代メソポタミア文明のシュメール人が用いた楔形文字であることは学界の一致するところだが、それは紀元前3,000年頃とされる。すると、絵という手段が生み出されたのと文字の発明との間には、少なくとも60,000年もの隔たりがあるわけだ。とまれ、人類が言語を持つより遥か以前から、「描く」という行為は存在していた。これは単なる表現行為ではない。それは世界を知覚し、他者と共有しようとする意思の顕現、すなわち、自己と世界の間に橋をかけようとする営為だった。

 

神経科学者・岩田誠は、人間を「ホモ・ピクトル（描くヒト）」と再定義すべきだと提案する。ホモ・サピエンス（賢いヒト）でも、ホモ・ファーベル（作るヒト）でもなく、まず「描く」という知覚と表現の複合的行為が人間の根幹にあるというのだ。これは決して比喩ではない。絵を描くことは、人間の視覚・記憶・判断・感情といった神経的プロセスが複合的に働く、極めて高度な認知活動である。絵は「情報」ではなく「経験」であり、「意味」ではなく「存在の痕跡」なのだ。

 

線と脳 ⎯ 神経美学的基盤と表現

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2002年、ボクはセミール・ゼキの著書『脳は美をいかに感じるか（原題：Inner Vision）』に出会い、大きな衝撃を受けた。ロンドン大学の神経美学者である彼は、脳がどのように「美」を知覚するかを科学的に解明しようとした先駆者である。

 

本著でゼキは、二人の神経生理学者デーヴィッド・ヒューベルとトーステン・ウィーゼルの研究成果を紹介している。それによると、視覚脳は形態・空間・色彩といった情報を、いずれも「線的記号」として処理しているという。視覚脳のV1皮質における方位選択性細胞の存在は、人間が世界を「線によって構造化している」ことを示している。ゼキは言う、「線とは、私たちの知覚のもっとも基本的な単位である」と。ちなみに、先の二人の神経生理学者ヒューベルとウィーゼルは、この視覚脳における認知と情報処理の研究成果でノーベル賞を受賞している。

 

この神経科学的洞察は、ボクが墨とアクリルを併用した独自の線描法を開発する契機となった。それはまた、イタリア・ルネッサンスのフィレンツェ派において重視された「ディゼーニョ（disegno）」、すなわち線描によって思考し、構築する方法論と通じ合うものである。

 

東洋と西洋、墨とアクリル ⎯ 表現の交差点

 

墨という素材は、東洋において単なる描画の手段ではなく、精神性の象徴であった。とりわけ日本においては、長谷川等伯に代表される水墨画が、自然との一体感、余白と沈黙をもって深い精神世界を表現してきた。一方、アクリル絵具は近代西洋の技術革新の産物であり、明度と透明度を両立する柔軟な素材だ。ボクの技法は、こうした二つの文化的・技術的遺産を融合させるものであり、西洋と東洋、古典と現代、理性と感性、身体と精神を統合する創造的実験でもある。

 

この線描法において、ボクは「見る」という行為そのものに迫ろうとしているわけだが、それは単に可視の領域にとどまらず、不可視の領域に向けられる眼差しをも包含している。それは、線を重ねることで時間と記憶のヴェールを幾重にも織り込み、視覚の迷宮の奥に潜む、認知以前の「見ることの根源」へ肉薄しようとの試みなのだ。

 

見るという行為、描くという選択 ⎯ 代数学のアナロジー

 

さて、人間が視覚情報を処理する際の、形態・空間・色彩すべてが「線的記号」として脳内に再構成されるという神経生理学的メカニズムは、普遍的な真理であることは疑問の余地もない。すなわち、世界を「見る」という行為は、物理的現実をそのまま写すことではなく、無数の神経的演算を経て、世界を再構築することなのだ。

 

ボクは、この視覚と認知のメカニズムを基とする創造のプロセスを、代数学になぞらえてみたい。代数学では、例えば連立方程式を解くとき、多次元空間（n次元）における交点を探すわけだが、その交点（解）は、無限に広がる可能性空間の中の、ただ一つの整合的な焦点だ。ボクにとって“美術する”という行為は、無限個の想像的または思考的な可能次元から任意の一部に焦点を当て、これを一つの解として二次平面に表現するものだ。それは、代数学において連立方程式が無限の解空間の中からただ一つの整合解を導き出すような、知的かつ創造的な操作にほかならない。

 

一枚の絵は、思考空間における無限の可能性の中から、ただ一つの焦点を見出し、それを可視化した証である。この選択のプロセスは、論理だけでなく、精神性、霊性、身体性を総動員して行われる。だからこそ、描くという行為は、機械的なアルゴリズムによる生成とは本質的に異なるのだ。

 

揺らぎと霊性 ⎯ 人間にしかない創造性のコア

 

また、この視点は複雑系理論の揺らぎにも呼応するものだ。つまり、諸要素の因果関係が直線的でない非線形で、予測不能であるにもかかわらず、ある種の秩序やパターンに向かって収斂していくその有り様は、まさに美術における創造プロセスそのものだからだ。

 

今日、人類はかつてない知的挑戦に直面している。人工知能（AI）の台頭である。AIは、画像を生成し、音楽を作り、言葉を編むことができる。だが、それは「表現」なのだろうか。「創造」なのだろうか。ボクは、“否”と答える。AIはデータとアルゴリズムをもとに「それらしく」見せることはできても、「見る」という経験そのものは持ち得ない。「見る」という行為は、身体的感覚、記憶、感情、判断、そして倫理的選択を伴う。それは存在を通じた認知であり、世界との関係のなかで育まれる複雑なプロセスである。

 

こうして人工知能が台頭する時代において、美術は新たな意味を帯びることとなった。”美術する”という行為は、人間が単なる情報処理装置ではないということの証明であり、霊性を備えた存在としての証なのだ。AIが模倣できるのは、あくまでデータの構造や過去のスタイルであり、人間が偶然と直観、身体感覚と文化的記憶を複合的に織り交ぜて生み出す「揺らぎ」には到底及ばない。この「揺らぎ」こそが、人間の創造性の核心にあるはずだ。それは制御不能であり、予測不能でありながら、最も豊かに美術家自身そして鑑賞者と世界とを繋ぐ開口部でもある。ボクはその揺らぎに耳を澄ませ、線と線が呼応し合う一瞬に、言葉を超えた意味の発露を見出そうと努めている。

 

線が語るもの ⎯ 人間性の復権に向けて

 

線は言葉をもたない。しかし、線ほど多くを語るものはない。一本の線が、世界を切り取り、記憶を呼び起こし、感情を触発し、思考を促す。その線と線との無限の関係性は、私たちの中に先在する「何か」と響き合い、未分化の混沌のなかから「質」を生み出す。

 

線は人間の精神の深層から発せられる言語であり、人間の尊厳を形にする行為である。ボクは、「描くヒト」として、「見る」という行為の深層に分け入りながら、人間とは何かという問いに、線をもって応答しようと模索し続けている。

 

芸術は死なない。なぜなら、それは「生きていること」の最も根源的な証明だからである。AIがいかに進化しようとも、人間だけが持つ「見ることの痛み」「感じることの悦び」「創ることへの情熱」は消えることはない。ボクは描く。そして信じている、美術は人間であることの本質を語り得る、と。