
Japanese sumi ink & acrylic
Life-Scape
思うに、いったい人が足を踏み入れたことのない場所はあるのだろうか…?人が介在したことで風景はどんな風に移ろい、変化してきたのだろうか?あるいは風景によって人の営みはどんな風に変化してきたのだろうか?近代イギリスに発して世界を席巻し、20世紀以降今日に至るまで科学と技術革新への盲目的信仰を基礎として世界秩序を樹立した産業革命。これはイデオロギーの是非を問わず、あまねく欲望されてきた新興世界宗教であるかのようだ。その萌芽期、すでにこれに抗い、人間と自然との営みの本質を問う声が上がった。その声はこだまし、今日のエコロジー運動へと継承されてきた。そして、今、ボクたちは、人工知能(AI=アーティフィシャル・インテリジェンス)が人間の知性を超越して社会秩序を刷新しようとする時代、すなわち第4次産業革命期を前に、改めて問わなければならない、「知」の領域でも「地」の領域でも、いったい人が足を踏み入れたことのない場所はあるのか、と。
ボクは、人々の日々の営みを、その固有の歴史·文化のうちに現代理解に併せて掬いとり、それを丹念に描写することで物語を紡ぎ、自身の視覚言語をもって新たな物語を生み出すことを試みたい。それは単なる風景画でもなければありふれた写真の複製でもない、21世紀後の物語の生成なのだ。それは、ジャン=フランソワ・リオタールの謳った「大きな物語」の可能性への、ボク自身の探求と言っていいかもしれない。リオタールは「大きな物語」、すなわち、社会や歴史や知識、価値観など、人間が悠久の時を経て構築して来た、そして広く信じられて来た包括的かつ普遍的な意味の体系は終焉した、と説いた。しかし、以来半世紀を経て、人類は新たな「大きな物語」をAIのうちに見出そうとしている。
リオタールが『大きな物語の終焉』を発表した70年代終盤、97歳で人生の幕を閉じた戦後日本を代表する美術家に熊谷守一という人がいる。「庭の画家」と称される、ボクが敬愛する美術家だ。ボクは、その生き様に感銘を覚えてやまない。生涯を通して素朴な生活を貫き、庭と絵だけを愛して、庭で遭遇する草花や昆虫、小動物を深く観察しては四季折々の光や風の調べに合わせて単純なフォルムの作品に昇華した。晩年の30年は、ほとんど外出することがなく、あたかも自宅の庭がすべてであるかのような、仙人さながらの生き方を貫いたと言われる。守一曰く、「旅に出なくても、虫や花や陽の光を見ていれば、宇宙が見える」。そこには、人工知能(AI)のアルゴリズムでは決して解析不可能な、ゆえにAIには叶わない表現領域が存在する。
また、作品はかつてウンベルト・エーコが著した「開かれた作品」とならなければならない。つまり、作品はある概念を可視的に表現しつつ、その内奥に意味のヴェールが幾層にも連なり、やがて万民に開かれた解釈を許容し、しかもその作家の意図を揺るがすことのない表現にまで昇華されていなければならない。それはまさに複雑系のゆらぎそのものだ。ボクの独自に開発した墨とアクリルを併用する線描法は、数えきれない線の連なりのうちに意味のヴェールを紡ぎ、人工知能(AI)のアルゴリズムには不可能な未到の地への飽くなき挑戦にほかならない。こうして、歴史の途上でボクの目に映じた“今"をイメージとして定着させつつ、太古から連綿と続く人間の営みのコアの記憶を呼び覚ますヴィジュアル言語としての物語が生まれる。それこそが、ボクの志向するライフスケイプだ。































