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Drawing in Monochrome
Drawing - Graphite_edited.jpg

Drawing

in Monochrome

     る美術家はその活動期に数え切れないほどのドローイングを残すが、他の美術家は直接作品に向かう。またある美術家は、作品構成を様々試したり、アイデアやインスピレーションを具体化するのにふんだんに写真を使用する。レオナルド・ダ・ヴィンチはカメラ・オブスキュラを使用した最初期の美術家といわれる。また、その後100年余を経て、ヨハネス・フェルメールやカナレットの名で知られるジョヴァンニ・アントニオ・カナールが積極的にカメラ・オブスキュラを使用したことは周知の通りだ。近代では、フランシス・ベーコンやアンディ・ウォホールが、自身の創作に写真をふんだんに利用したことは有名だ。ボクはこのところ、オリジナルドローイングや画像をデジタル処理して創作を進めることが多い。いずれにせよ、何をもってドローイングとするか、あるいは習作とするか、その境界は不鮮明で、ここに集めた作品群も同様だ。十分な完成度を持った作品とみなせるものも多くあるし、これまで創作し完成としてきた作品のうちにも、その質にまったく満足できないものも多々ある。してみれば、美術家の創作人生こそ、より完成度の高い何かを目指して歩を進める習作そのものであるかもしれない。いずれにせよ、人間の創造性について考える時、ドローイングは中心的な位置を占めるはずだ。およそ文字を発明するはるか以前に、ヒトはドローイングを手にしていたのだから。いわば、絵画もシンボルも標識も文字も、このドローイングに基礎付けられているのだ。

  ボクの場合、鉛筆ドローイングは幼い頃から一番好きな技法だ。それはあまりにシンプルで幼子にもできるのだが、その実たいそうな技倆を要求される技法でもある。確かに、すべての美術家に事物をよく見、理解し、それをあるがままに描くという類い稀な技倆を要求するとすれば、それはドローイングをおいて外にない。言うまでもなく、それはあらゆる芸術活動の基礎である。ボクはいつも思い起こす。まだ幼い頃、紙と鉛筆をもらえる前から、小枝や小石をとっては、嬉々として土の上に絵を描いていたのを。思えば、ボクの人生の節目はいつも秋だった。そして“落ち葉”を主題としたコンセプチュアル・ドローイングが生まれた。以来、他に主題を求めつつ、その可能性を探っているが、たとえば、落ち葉は単に朽ち行く物体であるにもかかわらず、いやそうであればこそ、すべての鑑賞者に無限の解釈を許容する"開かれた"作品となる。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが「古靴」を描いてみせたように。くだんの作品が、マルティン・ハイデガーを筆頭にして哲学論争を巻き起こしたことは記憶に新しい。

  ここではモノクロームのドローイング作品を集めてみた。そのほとんどはグラファイト鉛筆によるドローイングだが、単色水彩によるドローイングも幾つか収めてみた。

Memento #02.jpg
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