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Japanese sumi ink & acrylic

Portrait

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     ートレイトとは何か。太古の昔よりいずれの文明にも見られ、現在に至るまで変わらないひとつのかたちは、主権者の権威と権勢、その栄華の象徴である。それは主権者の神格化にほかならなかったが、時代の変遷とともにそのかたちは多様化し、重層的な意味を帯び、表現も目くるめくように変化を遂げてきた。中でも写真芸術の到来は、殊に絵画におけるその地位に揺さぶりをかけ、絵画はその新たな表現の可能性を模索することを余儀なくされた。それはまた、抽象から現代に至るその後の美術の流れを暗示するものだったはずだ。しかしながら、ポートレイトの基本、すなわちそれが社会的にも個人的にも当該の人物を写すものであり、その内面を掘り下げるものであり、かつ美術家とモデル、そしてしばしば依頼主との関係性の上に成立するものである点は変わらない。

 

  ところで、何年か前に英国モダン美術の巨匠,L・S・ラウリーの回顧展を観に行った折、大いに感銘を受けた作品がある。ラウリーの自画像である。荒漠と広がる灰色の海にそびえ立つ一本の尖塔、装飾ひとつないただの灰色の塔。孤独にして廉直な自身の内面をこれほどまでにえぐり出してみせたその作品を前に、ボクはしばらく釘付けになった。なるほど、自画像と謳いながら、そこにはラウリー自身の似姿は見当たらない。また、ラウリーは“建物の肖像”も多く残している。そこには、ポートレイトが内包するパラドックスがある。いったいポートレイトが作品とみなされるのに、上述の基本を満たせば、すなわち人物を写し、その内面を掘り下げ、関係性をあぶり出すことでその意味は完結し得るのか。あるいは、モデルとしては美術家の眼前に実在しない人々を肖像画として表現することは可能なのか。この問いは、定かに視覚イメージの抱える根本問題に突き刺さっている。見ることと見られることとの距離、虚像と実像との距離、虚飾と実質との距離、性差の距離、肉体と精神との距離、存在と非存在との距離。まさしくポートレイトの可能性は無限だ。

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